昭和55年12月26日 朝の御理解



 御理解 第87節
 「腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ。」

 第八十七節というのは八十八節の前提である。広がりに広がっていく、そこからのおかげを頂く為の前提。その前の段である。八十七節次は八十八節。今日はその事を頂いたんですけれども。昨日は丸少の感謝の夕べが、まぁ丸少にとっては大変盛大なものだったと思います。もう一ケ月も前からその事に取り組んで、もう本当に子供達でもようもこんな事が出来ると思う様な、舞台装置が何からもう一切丸少の手でやっておる訳です。
 昨日少し時間がおくれましたけれども、信徒会館のお広前ですからあちらへやらせて頂いて、お礼を申さして頂いた途端に頂きました事は、大きな桜島大根でした。こんなに大きな桜島大根が、ところが葉があのうこうくしゃっとなっておる所。葉が生き生きと大根にはついておりますよね。私はそれを頂いて昨日、この前の月次祭の時にお話しをしたあの大根の、あのう大根とその葉の境から切ったのじゃなくて、少し一寸位下のところから、すぱっと切ったお知らせを月次祭の時に頂いて。
 それに基づいて今度の月次祭の御理解は解かせて頂いたんですよね。おかげのあるも無きもわが心であり、又心ではここでは、心一つで総てを創ると言われるそのおかげの受けられる心。なら心一つでおかげを頂いていけれるその心とは、どういうような心をいうのであろうかと、いうのが今度の月次祭のお説教でしたね。それを昨日幹部研修会でしたから、その月次祭のお説教を聞かせて頂きながら、私は何の為にあのう大根が葉と根のその境ところから、すぱっと切って捨てられるのですよね大根の葉と言うものは。
 それが一寸ぐらいついておるのはどういう訳か、実は私も分かっていなかった。ところ昨日が改めてお説教を頂かせて貰うて、ははぁ成程そうだったなぁと真、真心というものがひとつになって、形に表される時にというのが月次祭の時のお話しでしたよね。だから葉がそれはいっぱいこう生き生きとしこっておる。だから葉ということは、形に思いを表した事であろう。だから大根そのものも大きな根が、それに伴のうておらねばいけないんだけれども、その少ししかついていない。
 形に例えば現す自分の真、真心を形に現す。けども現すけれども只形に現しただけで内容がなかったら駄目だ。少し一寸位はついておるけれども一寸という事はちょっとは、ついておるけれどもという事になるでしょう。皆さんが例えばはぁ親先生が喜びなさる様にとお供えをするとしましょうか。もう形は立派確かに親先生は喜んだね。その喜ぶのを見てまぁお供えをした人も喜ぶね。けどもこれが本当に神様に喜んで頂く事であろうか。只神様を目先ちょっと喜ばせよるだけの、まぁそれが御用であるとするなら。
 葉は生き生きとしとるけれども、大根の根のところは一寸位しかついていないという意味だと私は思うた。やはり大根の葉も生き生き形も生き生きしとるなら、その根大根というのは大きな根という。その心も一緒にともなって初めて真真心だという意味の御理解でしたよね。昨日改めて頂いてそこんところをよく私は分からして頂いたんですけれども、昨日丸少の感謝の夕べに一番初めに頂いた事は、今申しますように大きな、それこそ大きな桜島大根大きな丸い、大きな根という事ではないでしょうか。
 ところが葉っぱの方がこう萎れておる、とくしぁってなっているところなんです。それでいろいろ感じさせて頂いた事でございますけれども、今日の御理解八十七節というのは八十八節の前の段前提だ。いきなり広がりに広がるといった様な、おかげは本当なもんじぁない。やはり八十七節というのがあって、そして八十八節に入って行くのである。そうでしょうが。七というのはちょっと改めれば、十という字になるもんね。七という字をこうという様に、もう本当にちょっとしたところを分からせてもろうて。
 ちょっとしたところを改めて、ちょっとした事を努めさせて頂くという事が、今日の御理解を頂きますと、皆さんが拝詞を拝詞ですかね、今の祈願詞を「はかり知られぬお働き」という意味のところがあり、はかり知られぬ御心というところがあるでしょうが。はかりしられぬ程しのおかげこそが八十八だと思う。広がりに広がっていく。こげなおかげになるとは思わなかったというように、はかり知られないおかげになる。それはね人智や人力でその、はかり知れないおかげという事にはつながらぬんです。
 いわゆる無尽蔵のおかげ、いうならば無尽蔵のお徳という事になりましょうかね。いわゆる使うて減らぬ金百両的な、お徳を身につけるというのは、私共の人智人力では分からない。人間心では想像もつかない程しの、大きなはかり知られぬ御働きを、わが身の上にわが家の上に頂こうとするならば、そういうところを大切にしなければならない。こんなものと思わずにそれがいうなら、万代の宝にもなるようなお徳を頂かなければならない。腹は借り物というけれども、借り物ではない。
 心は有るやら無いやらわからんけれども有るんだと。しかもそれは万代までもの宝になるような、心一つで総てを創らせて頂ける程しの、内容のものであるという事になるわけ。これは懐妊出産そういう事だけじゃない。今申しますようにねいやな問題と思うておる問題がです、それはお徳を下さろうとする神様の御働きなのだから、それがそういう事に出会ったら、それこそ合掌して受けていけよ、その問題こそ大事にしていけよ、それが力を受けるんだよ、それで徳を受けるんだよという事になるでしょうが。
 万代までの宝にする事の上にですね、いうなら八十七、七という字をちょっと改めて分からしてもろうたら、そりゃ分からん実際はどういう事なのか。けれども神様のはかり知れない御働きというものに触れる事の為には、分かっているからこうしたといったのは、もう分かり切ったおかげですわ。わからんこそ限りないおかげに繋がっていくんです。私は金光様のご信心ちゃここを大切にせにゃいけんと思うです。
 これは今はどうか知りませんけれども、玉水教会では初代が居られる頃に、年に何回か大掃除がありますね大祭前に。もうそんな時にゃもう皆んなおかげ頂くそうです。そしてさぁ今日はなんというか埃かぶりというそうです、大掃除の事をね。埃がいっぱいたちましょう。だから埃をかぶりに行くというんだそうです。今日は大掃除の御用に行こうちゃいわん。埃かぶりその埃そのものが玉水教会にいうならば、満ちわたっておるところのお徳をかぶりに行くと言うんだそうです。
 それがゴミかお徳か分からんでしょうが。けどもそういう頂き方がですね、はかり知れぬおかげに繋がっていくんです。埃かぶりに行くんだというて埃かぶりに行く事を有り難いものとしていくわけね。おかげを頂くわけ。成程それこそはかり知られん程しの、お徳をおかげを受けられた、玉水教会にしていえる御教えだなぁと思います。丸少の感謝の夕べそりゃ行っとって、もうきつうして眠うしてこたえじゃった。けれどもやっぱりあのう皆んなが一生懸命、一ケ月もかかってやっておる事じぁから。
 まぁ最後まで見せて頂きました。別にコ-ヒ-どん飲んだりケ-キどん食べたりする位のこつじゃない。それがどうでしょうか今玉水さんのそれじゃないけれども、埃かぶりに行く分からん、もうあげな子供どんが踊ったり跳ねたりするとを、見たっちゃ何になるというこれが人間心なんだ。けれどもそこには神様のどういうような大きな願いがかけられ、大きな思いがその中にゃ込められておるかという事は分からんのだ。だから分からんから分からん程しのおかげになってくる。
 いちいち合点がいくね。例えていうならば理詰めでいくならば、こんな馬鹿らしい話しはない。そりゃテレビどん見とった方がよっぽど面白かね。けれどもそれが合楽教会の年中行事の中にある、一つの行事だと思うたら合楽のお徳によって、いうならば感謝の夕べがなされておるのですから、埃かぶりに行くような精神で、自分が一人行く事はそのまま合楽の御比礼だと、いうような気持ちでおかげを頂いて、そこからはかり知られぬおかげにつながっていくんですね。
 分かり切ったこうしてこうすりゃこうなるというもんじゃない。分からない埃被った事がどうして、お徳被った事になるだろうかと。まぁ理屈いうても分からんね。成程私が昨日頂いたいうなら大きな根、丸いしかも丸い大きなに子供達が、これから育っていかねばならない。自分達も又大きな心。大きな丸い心を頂かなければならない。ところが葉の方がぐしゃっとしとったちいうのは、いうならばそういう思いで、まぁあげんとはもう子供騙しごたるとじゃけんでというて、来なかった人達も沢山あった訳です。
 あれがどうでしょう、大祭の時のように集まってあのういうなら、埃かぶりの精神でおかげ頂いたら、それこそ大きな丸い大根に、生き生きとした桜島大根の青い葉っぱがついておったら、どんなに素晴らしい事であっただろうかとこう思う。私は昨日ねその桜島大根のそれを頂いて、教会で何かという時には、自分に関わりがあるとか無いとか、子供がお世話になっとるからといったような事でなくてです、それこそ合楽全体がその事に取り組ませて頂くような。訳きゃ分からんけれどもそこからね。
 本当のいうなら限りいうならばはかり知られんおかげに、触れていく事が出来ると思うです。夕べ丁度お食事が終わっておりましたら、学院生達が四名帰って参りましたね。恵介君、泰郎君、それから末永錦也君、それに綱宮美子さんと四人が今度学院に行ってます。二、三日前学院から通知が参りましたが、もう今度の学院生は一人一人がもう合楽の修行生が、もうそれこそあのう皆んなの目につくように、素晴らしい修行がでけるという意味の事が。担任のどの先生からもそういう褒め言葉ばっかりであった。
 以前まぁの合楽はこりゃ合楽だけはそのう。いうならば目の敵にしとるとじゃろかと思う位に、もうとにかく私しゃ忘れもしませんが、十月の十六日の大祭。今から大祭を仕えんならんという時に学院から電話が掛かってきた。ちょうど学院ではその日は卒業式であった。そして電話の先で私は、誰々の担任の先生だが、お宅で言われる合楽理念とは何ぞやという質問であった。一口で言われるかち言おうごたったばってん。今からあのう大祭を仕えさせて頂くなんですから。又そしてからお宅の何々という修行生は。
 今度卒業式場に入れとりません。あぁたの心一つで卒業させるもさせんもあるからという様な電話であった。だからその人は卒業式には入っとらん訳入れちゃない。だから教会長の心一つでは卒業させんちゅうとこじゃった。話しを聞いてみたら成程それじゃ卒業させられまいと、いう様な事でしたけれども私は申しました。もうそりゃあぁたん方のよかごつですばいと私はいうた。私がお願いしてまぁどうぞ卒業させて下さいとは頼まなかったです私はね。そしたらおかげで何日が遅れちからじゃあるけれども。
 卒業証書が送って来ました。その時分にはそういうようなものがいつも学院、例えばあのうもうこの学院生はとても出来んから暫くそちらに返しますというような、もうとにかく前代未聞だろうと思うような事が、まぁだいくつもあったです以前は。それはね先日からも頂くように、ある意味あいにおいて、傷を持っておる人達です。それがそのう傷のところだけが目につくから、なるほど卒業させられんという事になるけれども、その傷のおかげで先だってから、その傷のおかげでいうならば。
 私の普通の車から外車に替えるという、ねぇ二、三日前お話しをしたでしょう。日本の車からねそれこそ外車の一流の車に乗り替えるというのは,傷が受けた傷があったからこそである。だから例えばどんなに例えばもう、この人はもう駄目だとかつまらんとかというてもです、成程人間的に見ればつまらんけれども。はかり知れぬおかげに触れようと思うならば、そういうものを大事にしなけれりゃいけんです。私はそういうのを特別大事にするという事じゃないけれども。
 やっぱり吾が胎内に宿ったと思うて大事にします。こりゃ本当に大事にしなければなりませんです。いうならばはかり知れぬおかげと、それこそ丸少時代から信心の何んたるかを、段々身にしんできたんです分かってきたんです。そしていよいよぎりぎりのところで、自分の人生を決めようというのに、僕はどうでも学院に行ってお道の教師になる。恵介君に於いてしかり、泰朗君に於いてもしかり、錦也君はもう家がお教会ですから、それでもなら教会の息子だからというて。
 、僕はもう金光様の先生にはならんというのが、どの位おるか分からんです実をいうたら、教会の子弟であってもね。だからそういう何か分からんけれども、埃かぶりの中に育てられてから、そういうこれからどげなおかげになるやら分からんはかり知られぬおかげを、頂けるじゃ分らん様なおかげを、子供ながらも身につけていっておる訳なんです。丸少の人達は。親のね小さい人情で、そりゃもう合楽ちいう所はろくそなけんで、あげん所にやりよるなら却って出来そこなう、というた様な親も幾らもあるです。
 人間心が強過ぎるです。もう神乍らにそこに任せ切るね。お預け仕切るという様なね、そこからはかり知られぬというおかげは、そういう中からしか生まれて来ない。自分の子供をこうしてこうしてと、重箱に詰めた様なきちっと育てたごと思いよったけれども、さぁどっこい成長してみるとそげなだんじぁなか、親の思いを全然裏切るといった様な例は沢山あります。言うなら当てたフンドシは向こうから外れるです。だからそういう事じぁないです信心は。人情じぁで金のですだから。
 合楽の信心はどこまでもねいうならばその埃かぶりとかね、なら昨日の行ったって別によかお話しがある訳でもない。しかもなら素晴らしい踊りやら芝居が面白かと言う訳でもない。結局子供のする事であるから、けれども毎年教会で行われているひとつの行事の中に、埃かぶりにいくような気持ちでね、私はおかげを頂く精神が合楽には欠けておるという事を。昨日桜島大根の大きな根、大きな輪大きな丸い根を、子供達が育てて下さろうとしておる働きを、いうならば無視したような事になるんじぁないでしょうかね。
 もう大根の葉がぐしぁっとなっとる。だからこの丸い根にこれに生き生きした、桜島大根の葉が伴うようなおかげを、いうならば教会の比礼ということになるのじぁないでしょうか。比礼に浴すると言う事は、只有り難い話しに浴するという事だけじぁない。それこそ場合には埃かぶりのような事かも分からんけれども、その埃被りのその事の中に言うなら拝詞の中にありますように、はかりしられぬみ力、はかりしられぬお働きを受ける事の為には、そこを頂かねばならんという事でございますね。
   どうぞ。